私は

自分の中で飲み込むための文章を書く。

 

 

 

11月18日、私は「好き」がわからなくなった。

 

それまで、Aqoursのことは「好き」だと思っていた。何度も何度も作品に触れては思いを巡らせてみたり、出来る限りアウトプットを拾っては彼女たちの表現の真髄に触れようとしてみたり、かなりの熱を持って追いかけていたと自分では思っていた。毎日のようにAqoursのことを考えていて、すっかり依存しきっていたように思う。

 

 

 

ドーム中を駆け回り、感謝を告げる最後の挨拶が終わる。下がっていく迫りに逆らうように「L」のポーズを決める伊波さんの真似をしていたことは覚えている。これまでのすべてが詰まった、最高のライブだったと思いながら友人と帰る準備をしていた。

 

アンコールでのそれが比較にならないくらい大きな、Aqoursを呼ぶ怒号のような声が1塁側から響き始めた。地を揺らがすほどの、すさまじい大音声だった。またたく間に会場内を埋め尽くしたその叫びたちに、私はふと2年前の春を思い出していた。

 

 

 

――『μ's!μ's!』 

 

 

 

あの日、終ぞ応えが返ってくることはなかったあの人たちの名を呼ぶ声と、重なってしまった。かつてその声のひとつだった身として、(あぁ、この風景、懐かしいな)と、感慨すら抱いてしまった。

 

もう旅立ってしまったから、「ここで出ていくのは違う」と決めていたμ'sの選択は正しかった。でも、Aqoursは「まだまだ終わらないから!」と宣言した。何人ものキャストが「また東京ドームに戻ってくる」と再来を誓い、「東京ドームを新しいスタートライン、スタート地点として」と語るキャストもいた。この場所はまだまだ続いていく道中に在るマイルストーンのひとつであることは明白で、そのことを私も充分理解していたつもりだった。

 

それなのに、重なってしまった。あのときと同じだと、そう思ってしまった。

 

 「ファイナルの頃思い出すわ」と隣の友人に何気なく言ってみた、そのときだった。

 

忽然と照らし出されるメインステージ、アンコール衣装のまま全員で駆け出してきた9人の姿、スクリーンには泣き顔を隠しきれない降幡さん、宙を見上げる小林さん、そこからはあまり覚えていない。

 

 

 

気づいたときには、何か覚悟を決めたような表情でヘッドセットを取り外す伊波さんが見えた。

 

「本当に、本当に、ほんとうにっっ!!!」

 

ほぼ、金切り声だったと思う。悲鳴と言っても差し支えないほどの絶叫だった。遠く果てまで想いを伝えようとする人間の剥き出しの表現は、斯くも震えを喚び起こすものだったか。マイクを通さない生の声が、たったひとりのその叫びが、意味を持つ確かな言葉として耳朶に響いた。スタンド後方、ほぼステージの真向かいに立っていた私にまで、はっきりと届いてしまった。その後に聞こえた9人全員の想いは、過去に重ねて現在を眺め、冷笑していただけの私が受け取るべき言葉ではなかった。3日を数えた今も否定できない、悲しい事実だった。

 

 

 

結局のところ、私は心の底からAqoursを信じられてはいなかったんだと思う。Aqoursコールが届くと思っていなかったように、彼女たちの声もまた私に届くことはないと思っていた。私だけがどこまでも間違っていた。「好き」が、わからなくなった。

 

笊で想いを掬おうとしても、器には何も残らない。編目に光る雫すらも振り落としていたんだろう。手を雪ぐことも、喉を潤すこともせず、きらきらと輝くその奔流をただぼんやりと見つめていた人間が、私だった。

 

 

 

「好き」を称するなら、せめて彼女たちの誠意だけは一も二もなく信じているべきだった。持っていたはずの熱い気持ちを、名前に乗せて叫べるようなファンで居たかった。「いつかと同じ」じゃなく、今日は今日しか無いことを胸に刻んで、Aqoursに向き合うべきだった。それは紛れもなく、彼女たちがずっと教え続けていてくれたこと。

 

理解していたはずの答えは、心の中に浸透していなかった。「好き」を示そうともしなかった「ファン」にも別け隔てなく届いた応えを、私は今もまだ受け止められないでいる。