蝙蝠

私自身の話。総選挙や投票企画を否定する目的はありません。

 

 

 

4thシングルセンターポジション総選挙の投票期間、私は最後まで誰にも投票しないまま過ごした。

 

昔から私は「単推し」というものができなかった。どんなときでもいつでも絶対このキャラだけを、この人だけを応援するということがどうしてもできなかった。その日の気分や与えられたテーマによって「推し」がころころと変わっていくのは当たり前で、キャストに関しても会員放送やFCが開設されれば片っ端から加入してみたり、雑誌で誰かの特集が組まれればとりあえず買ってみたり、とにかくただ1人を選ぶことを避け続けていた。

 

今回の総選挙が発表されたときも、きっと自分は投票しないだろうな、と客観的に察した。理由は簡単、私には誰も選べないからだ。「みんな好き」なんて嘯いてみても、この投票では1人しか選べない。日数がいくらあろうと、2人同時に投票することはできない。向ける気持ちに差をつけているわけじゃないと頭では理解していても、感情を持たない数字として表現されてしまう無意識的な順位付けを私は忌避し続けていた。だから、常にただ1人の味方で居続けられる人間を羨ましいと感じていた。誰かを選ぶが故に他の誰かを傷つけるかもしれない、その覚悟を携えた彼らを嫉んでいた。その人だけを見続けることのできる真っ直ぐな想いのカタチが、眩しくて見ていられなかった。

 

 

 

1人のキャストは「今度こそ!!!今こそ。」と言った。

 

前回、あと少し手の届かなかった1位の座に大きな悔いを残しながら、それでも「4thの方が悪魔っぽいし…」と次を見据えて前を向いていたその人は、このチャンスだけは絶対に逃さまいとするように、日々欠かさずに想いを綴っていた。

 

1人のキャストは「センターで輝きたい!!!」と言った。

 

「誰に何と言われても立ち向かいます!!」と言い切りの法則を信じる彼女らしい断定調の言葉を掲げたその人は、今まで隠していた悔しさすらも夢への階段へと昇華させるかのように、自ら矢面を選び背水の誓いを立てていた。

 

 

 

私は、どちらの夢も選ぶことができなかった。かと言って、決意を示した彼女たちから目を逸らして他の誰かの背中を押すこともできなかった。

 

「2人とも好きだから選べない」なんてくだらない言い訳を並べたいわけじゃなく、ごくごく単純に選べなかった。選ぶことが怖かった。1人の夢を叶えるために、もう1人の夢を犠牲にすることに耐え切れなかった。だってそうだろう。毎日を全力でひた走るその生き様を、夢を叶えたいと吐露したその心情を、どうして否定することができようか。

 

もちろん2位以下も得票している以上、どちらかが嘘でどちらかが本当ということではないし、そもそも総選挙自体本来はキャラ主導の企画なのだから、キャストの想いだけを天秤にかけて票を投じる理由はどこにもない。票に記す名前はキャストではなくキャラクターだ。センターに立つのも、ジャケットに描かれるのもすべてキャラが担当する領域だ。自分の好きなキャラがセンターで輝くところを見たいから、このキャラの歌をいっぱい聴きたいから、そのくらいのシンプルな気持ちで選べばいい。キャスト自身ですら担当キャラに投票できる以上、その場においてキャストの存在は副次的と言える。

 

ただ、私はラブライブ!シリーズのキャラの生きた感情にずっと心惹かれていた。そしてその感情を彩色し出力するのは他でもないキャストだから、彼女たちの生の声明が占める比率は私にとって無視できる大きさではなかった。すべては、私の心の問題だった。

 

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結局、私はどちらも否定しない代わりに、どちらも肯定しなかった。両者の語る「夢は叶うもの」という巨大な矛盾を正さずに矛盾のままにしておくことが、私の心が望んだ唯一の選択肢だった。

 

 

 

2人に限らず、彼女たちはみんな誰かの夢を踏み潰して、今もその残骸の上に立っている。それは偶然ではなく、彼女たちの技量や想いの強さが他の誰よりも勝っていたからなのだろう。ただ、津島善子を、国木田花丸を、Aqoursになることを夢見た無数の応募者の願いたちを引きずり下ろして、そのたったひとつの場所へとのし上がったという事実にもまた間違いはない。『もし○○役が違う誰かだったら』という仮定に意味はないが、その場所を争う“違う誰か”が居たことは確かなのだ。

 

今回は、その“違う誰か”が知らない人ではなかった。積み重ねてきた努力の一端、叶えてきた夢の数々とともに、私はその場所を切望する人たちを知っていた。その祈りが、きっと本物であることを知っていた。

 

かつてその場所を制した人、その場所に立つことが義務だった人、その場所をただ静観してきた人――その中で、仲間と競うことになる怖さも厭わず夢を宣言した人が2人。もしかしたら、2人と同じ夢を持ちながらも触れられなかったキャストもいたのかもしれない。それでも背を向けずに声を上げた彼女たちの凄絶な覚悟に相対し、ひとつの夢だけを選択することなど、私にできるはずもなかった。

 

 

 

ファンは演者に対する自分たちの振る舞いに責任を負うことができない。演者がファンの選択をどれだけ聞き入れようと、その行動の責任が帰結するところはすべて演者自身だ。ファンはいつでも客席から逃げ出すことができるが、演者にはステージからの逃避は許されていない。だから、演者が抱え込むその荷物に手を伸ばし一緒に背負おうとする試みは、無責任で傲慢な行為だ。どれだけ演者がファンに寄り添おうとしてくれていても、客席とステージを分かつ不可視の境界線は変わらずその間に横たわっている。

 

総選挙という仕組みは、確かにファンの声ひとつひとつが彼女たちをその場所へと押し上げる。だからと言って、キャスト自身の発信をもファンが荷物として背負うことはできない。たとえ夢が叶わなかったとしても、その現実に責任を感じようとする行為はファンの領分を逸脱している。そんなことは至極当然の不文律だ。

 

だからやっぱり、どこまで行ってもこれは私自身の心の問題だった。キャストの強さを信じていないわけじゃない。ただ、がんばっている誰かの夢が敗れる瞬間を見たくなかった。そのためだけに、ファンとして向けるべき応援の気持ちを再び封じ込めた。想いは必ずしも結実しないこと、その普遍的な残酷さを直視できない、いつまでも子供のままの甘ったれた弱い心が諸悪の根源だった。

 

 

 

投票期間が終わっても、これでよかったなんて微塵も思えなかった。

 

推しだけを一番に信じ、他の誰がなんと言おうとその人を推し続ける、強く揺るぎない応援の意志。投票に踏み切れなかった私に欠けているのは、きっとそうした、純粋で真っ直ぐな想いなんだと思う。